魅惑の音楽団 増員秘話 その1

安田しん二が語る、結成後の魅惑の音楽団、〜2011年暮れまで。

 

 僕はどちらかと言うと、昔の事はよく憶えている方だと思う。しかし、ここのところ、ごく最近の事は直ぐに忘れてしまう。歳をとったと言う事だろう。僕は25歳でプロのミュージシャンになり、2012年1月14日で満50歳になる。その50歳になろうとする僕が、未だかつて『バンドで飯を喰って行く」と言って夢を追い続けているのには、人によっては「いい歳こいて何を言ってるの?!」と言うかもしれないし、「イタイ」と思われるかもしれない。因みに僕の中で、「プロのミュージシャン」と「バンドで喰う」はイコールではないのだ。

 中年の夢?いいじゃないか。僕はこのバンドにその夢を託して、精一杯楽しんでやりたい。

 40歳だって50歳だって、まだまだ夢を見るさ。そんな僕らが本気で遊ぶバンド、それが魅惑の音楽団だ。

 

 今回の記事を書くにあたっては記憶力がちょっと不安だが、結成以後、その辺の記憶を辿る……と言っても、そんなに昔の話ではないのだが……。とりあえず、9人でスタートした魅惑の音楽団がどのように増殖して行ったかを書いてみようかと思う。

 2011年現在、メンバーは総勢16人である。だから結成時からは7人増えた事になる。2012年1月15日のライヴは2人お休みで14人で演るが、僕の魅惑の音楽団の構想は、「魅惑の音楽団20人位構想」なのである。

 

 

 

 

 魅惑の音楽団は、僕と、サックスも吹く雅楽師の稲葉明徳、ボリビアで活躍するビエントスの菱本幸二、ガット・ギターが抜群に上手いシンガー・ソングライターの長谷川友二、それにバナナス、ミラクルシャドウとずっと一緒にやってるベースの吉岡よすおと、4人のストリングスの女性、工藤美穂(1stバイオリン)、小原直子(2ndバイオリン)、佐藤雅子(ビオラ)、井上とも子(チェロ)の合計9人で活動を始めた。

 

 全員が経験豊富な優秀なプロ・ミュージシャンであり、世代も皆ほぼ一緒である。

 

 

 

 

 このメンバーに最初、是ちゃんと言う人気ロック・ギタリストが入ってくれたのだが、彼は他にも沢山バンドをやっていて、残念ながらライヴ1回だけの参加となってしまた。僕としては、是ちゃんが凄く上手いのと、アマチュア時代からの旧友だったので、かなり未練が残った。明ちゃん、菱ちゃん、是ちゃんのソロ・バトル、ホントに凄かった………。

 

 だが、また気を取り直して9人で活動して行こうと思った。

 

 暫くして、10人目のメンバーが見つかった。

 

 以前、僕らのリハーサルを観に来た事のある、パーカッションの宗像仁志(ムネゾー君)だった。

 ムネゾー君は作曲家・編曲家として、活動していたが、元々はパーカッショニストである。実は青野光政(青ちゃん)が社長を務める事務所、イデア・サウンドにずっと籍を置いていた。ちょうど僕と入れ替わりでイデアを辞めたのであった。

 

 何故イデアを辞めたかの経緯は知らないが、僕はアレンジの分かる、ロジカルなパーカッションを入れたかった。青ちゃんに「ムネゾー君を誘って」としつこいほど言って言って言いまくった。ある日、青ちゃんが「今度、ムネゾー来るよ」と言った時はホントに嬉しかった。僕はドラムを叩いて歌う事が多いので、ムネゾー君には是非参加して貰いたかったのだ。

 ムネゾー君はとてもロジカルで、野性的と言うよりはスタイリッシュなパーカショニストで、正確なリズム感とセンスとアイデアの人と言うタイプである。

 しかも、ギターもベースも弾ける。ウチのバンドはここの部分が大事なのだ。

 

 案の定、ムネゾー君が参加してくれて、僕は安心してドラムを叩ける様になった。

 

 以外だったのは、ムネゾー君がこのバンドに対し、凄く乗り気だった事だ。それはホントにもう、嬉しい誤算であった。

 

 僕はムネゾー君と会うまで彼に対して、もっとクールなイメージを勝手に抱いていたからだ。

 

 話はそれるが……(しょっちゅうそれるので要注意)、宗ちゃん(ムネゾー君と呼んでいたが、最近は宗ちゃんと呼ぶ事の方が多くなった)の話が出たので、ちょっとローカルな話を書こうかと思う。

 

 話、かなり、それるからね。

 

 「宗ちゃんが乗り気だったのが嬉しい」と言ったが、実は僕と宗ちゃんの間には、エンジニアの青ちゃん以外にも共通の友達がいる。しかも、アマチュア時代の友達だ。

 アマチュア時代、宗ちゃん達は日吉のヤマハを拠点に活動していた。宗ちゃんは、僕と同じ作曲家&ドラマーのTSUKASA君のバンドのメンバーだったらしい。

 そこのバンドでベースを弾いていたのが、僕とアマチュア時代にジャズ・ロックのバンドをやっていた、僕より2つ歳上の西嶋くんだった。ジャズ・ロックとは、平たく言うとプログレッシヴ・ロックの亜流で、明るく爽やかなフュージョンと言うよりは、もっとロックよりのヨーロッパの音楽だ。

 西嶋くんは当時僕とやっていたバンドを辞め、もっとプロに近いバンドへ移って行った。

 その西嶋くんが次に入ったバンドは、今まで僕らがやっていたバンドとは正反対とも呼べるほど、ポップなバンドだった。

 西嶋くんの凄いところは、時代のトレンドに敏感に反応して、流行の最先端に立てると言う事だった。たしか、そのバンドも日吉のヤマハを拠点にしてたんじゃないだろうか?ある日、西嶋くんがヤマハで録ったデモ・テープを持って来て聴かせてくれたが、まるでレコードを聞いているかの様なそのサウンドは、当時の僕にとって正に衝撃だった。僕はそれまで、「バンドの音を録る」と言ったら、たんにモノラルのラジカセを部屋のどこかに置いて、ガチッと赤いRec.ボタンと黒いPlayボタンを同時に押すだけの事だったのだから。

 西嶋くんは日吉の人で、僕は湘南の人。電車で3〜40分も有れば着いてしまう、同じ神奈川県の町出身同士なのに、着てる物も、振る舞いもまるで僕らとは違っていた。彼は正に、COOLな都会人と言う感じだったのである。

 僕はそれから、西嶋君周辺のミュージシャンを「日吉系」と勝手に呼んでいた。西嶋くんがプロになって、リキを入れてやってたバンドが宗ちゃんがいたTRY-Xと言うバンドだった。今から30年前、このバンドはローランド社のMC4と言う、シーケンサーを既に使っていた。まだMIDIが規格される前の話である。MC4は、当時最先端のバンドと言われてたTOTOが使っていたが、まだまだ、日本の音楽業界でも決して一般的ではなかったはずだった。

 もう、なにからなにまで、僕の数百メートル先を走っていたのだ。日吉系恐るべしである。

 僕が唯一自分の良いところを挙げるとすれば、そんな凄いライバル達を見ても折れず、挫けなかった事だけだろう。

 実はTRY-Xは結局、観ずじまいであったが、今となればかえって観ない方が良かったのかもしれない。観ていたら、流石に折れてたかも。。。。
 その当時僕は20歳 位だったので、宗ちゃんは高校生?まさか、あの頃、宗ちゃんいたのかな?まあ、何はともあれ、僕にとっての日吉系はCOOL、スタイリッシュでセンスが良いと言うところなのだ。宗ちゃんもしかりである。

 

 宗ちゃんは、高校生の頃からそんな環境で音楽を演っていた。だから、プロになったのも凄く早いはずだ。鈴里真帆と言うアーティストのバック・バンドでは若くしてバンマスを務め、その時、長谷川君とも一緒に演ってたはずだ。

 だから、魅惑の音楽団に参加した時、既に長谷川君とは面識が有ったと言う事になる。

 

 そう言えば、宗ちゃんと僕は今、同じ作家事務所に所属している。その事務所の何年か前に催した懇親会の時に宗ちゃんに会ったが、「魅惑の音楽団、はやく演ろうよ〜」としきりに言ってきた、ちょうど魅惑の音楽団が休止してる時の事だった。

 

 

 魅惑の音楽団は赤羽橋のライヴ・スポット、『パシフィック・ヘブン』で何回かのライヴを演り、鎌倉の『久成寺』で無料コンサートを開いた。2008年の10月である。

 

 ライヴは大好評だったが、何故かその後活動が止まってしまった。メンバーとは、なにかと会う機会は少なくはなかったが、ライヴを演らないまま年数だけが経って行ったのである。

 

 僕としては解散したわけでも、活動休止宣言をしたわけでもなかった。自分の作曲・編曲の仕事が忙しく、なかなか行動が起こせないでいたのであった。大反省である。

 

 そんな時、東京の田園調布学園と言う学校から、芸術鑑賞会の話を頂いた。ここの学校には、チェロのともさんの学生時代の友達が音楽の先生をやっていて、以前、その方が僕達のライヴ観に来てくれた事が縁となった。

 

 ひょんな事から、バンドは息を吹き返そうとしていたのだった。

 

 僕はこの数年、同じ作家の友達を作り、随分横の輪を広げてきた様に思う。

 作詞家の友達は以前から何人かはいたが、同じ作曲家となると、同業者と言う事もあり、なかなか知り合える機会がなかった。

 

 僕はある作家が沢山集る飲み会で、外山和彦(トヤサン)と会った。トヤサンは飲み会の前に、あらかじめ僕の事を調べてきたみたいで、僕のHPに書いてあった魅惑の音楽団にも、なにげに興味があるみたいだった。メンバーのともさんとは、以前何度か一緒に仕事をしてたみたいで、僕に「井上さん、知ってるんだぁ〜」と声を掛けてきたのだった。

 その時は時間がなくてあまり喋らなかったが、後日トヤサンが何度も連絡をとってくれて、いつの間にか一緒に呑みに行ったり、食事をするような仲になっていた。

 

 トヤサンは、僕の様なポップス系の作曲家は、自分の周りにはあまりいないと言っていたし、僕もトヤサンの様な、CMや劇伴の作曲家は当時はあまり知らなかった。

 

 面白いもので、作曲家と言っても、いろいろなジャンルの作曲家がいるのである。僕の様に、ポップスやロックのアーティストや歌手に楽曲を提供する作曲家、いわゆる「歌モノ」の作曲家、CMの作曲家、ドラマや映画などの「劇伴」の作曲家、ゲーム音楽中心に書いてる作曲家、アニメ曲が多い作曲家、前衛音楽を中心に作曲する作曲家、吹奏楽や合唱曲を多く書いてる作曲家………、もういろいろである。

 

 ジャンルが違うとなれば、尚更知り合う機会は減少する。でも、運の良い事に僕は、最近色んな作曲家と友達になる機会に恵まれたのである。

 

 僕がJASRACの総会に初めて行った時、ついでに総会のあとに開かれる懇親会にも出てみた。20年近くJASRACの会員でありながら、総会に出るのは初めてだった。僕は以前、町内会の自治会長をやらされて、「総会」なるものを初体験した。決して良い思いはしなかったが、でも、「総会」なるもの、やっぱり出るのが義務かと思うようになったのであった。この時のJASRACの総会〜懇親会、僕は作家仲間のコモリタミノルさん(SMAPの「ライオン・ハート」の作曲者)と行ったのだが、懇親会でコモリタさんが途中、JASRACの職員と話し始めると、僕は他に知り合いもなく、独りぼっちになってしまったのである。

 懇親会が終わり、エレベーターにコモリタさんと乗ろうとしたところ、偶然コモリタさんの同郷の作曲家、寺嶋民哉さん(映画「ゲド戦記」の音楽を書いた作曲家)と会った。コモリタさんとは、何十年ぶりかの再会だったみたいだった。僕もついでに名刺交換させて貰った。寺嶋さんはこれから呑みに行くのだと言う。コモリタさんは、次があったので、そこで別れたのだが、僕はなんか呑み足りない気分だったので(総会は呑みに来るところじゃないのだが……)、無理やり寺嶋さんに付いて行く事にした。

 その時一緒にいたのが、山移高寛と言う作曲家で、その山ちゃんの友達と寺嶋さんと僕とで呑んだのである。因みに僕は、その時が他全員と初対面だった。

 後日、山ちゃんに「蕎麦の会」と言うのあるのだけど、来ませんか?と誘われた。24名が出席したこの会の会長が、僕の尊敬する馬飼野俊一先生だった。
 実は、先ほど書いた『トヤサンと初めて会った飲み会」こそがこの会だった。今ではこの会、会員が100名を越え、随時50人以上が集るほど賑やかな会となっている。 

 

 不思議な事に、他ジャンルの作曲の人の話を聞くのは凄く面白い。僕としては、彼らをリスペクトはしても、変なライバル視はしてないのである。

 

 「こういう人達となにか面白い事できたらいいのにな」、僕は漠然と思っていた。

 

 田園調布学園から話を頂いたのはちょうどこんな頃だった。

 

 芸術鑑賞会、正式にはこの学校の「定期音楽会」のゲストと言う事で、ステージはおよそ50分位の催しでと言う事だった。

 

 場所はなんと、横浜の『みなとみらい大ホール』である。

 

 学校イベントは普通のライヴと違い、特別に気を使わなくてはならない部分がある。僕は考えてみたら、学園祭出場の経験はあるものの、学校イベントは初めてだった。

 

 PAは極力使わないで欲しいと言う要望があったので、結局歌は無し、インストのみでの演奏にしようとなった。

 

 メンバーのスケジュールも全員押さえる事が出来た。僕、よすおさん、明ちゃん、菱ちゃん、長谷川君、宗ちゃん、みぽりん、コバちゃん、マチャさん、それからともさん。皆が2年半振りに揃う事になった。

 

 メンバーからは、「やっと演れるね。よしっ!」と言う様な声が上がった。

 

 今回からは、僕がメンバーのスケジュール調整もしなくてはならなくなった。ちょっと不安だったので、今回のみ助っ人を頼み手伝ってもらった。

 

 たしか、ここの学校には弦楽合奏部があったはずだ。と言う事は、みぽりん達への注目度はかなり高いはずだ。

 今回予定してる曲には、弦が入ってない曲が数曲あった。その全てに弦を入れなくてはと思ったのだが、実際この頃、僕に弦を書く時間がなかったと言うのもあり(無理すれば出来たかも……)、誰か信頼出来る人物に書いてもらおうと思った。

 

 さぁ〜て、誰に頼もうか。

 

 選択肢は「☆誰にも頼まず、僕が夜中にがんばってやる」も含めてかなりあった。

 

 でも、いの一番に浮かんだ名前が外山和彦(トヤサン)だった。

 

 何故トヤサンになったのか?

 

 僕は先ず、僕とは音楽的な趣向もバックグランドも全て異なってる人にお願いしたかった。そう言う意味でも、トヤサンは理想の音楽家だ。トヤサンのバークリーを首席で卒業した、と言うアカデミックさは、伊達ではない。クラシックにジャズのビッグ・バンド、トヤサンのベーシックには、僕とは共通項は見当たらない。同じく吹奏楽部出身ではあるが、僕は高校ではロック小僧だったので、ここもバッティングしてない。トヤサンは10代の頃、武満徹さんの音楽とか、そういうのばっかり聴いていたらしい。僕との共通項は音楽に対する偏見がない事と、スピリットだけである。

 普通、バンドを組む時とかは、音楽的な共通項が多いもの同士が組むと思う。僕等の場合はそれは逆。音楽的な部分は違っていて、パーソナルな部分で気の合うミュージシャンの方が面白いと思っているのだ。それに、その方が音楽的に広がると思う。

 

 ま、ここはストリングスのアレンジを数曲頼むと言う事だけで、別にメンバーになって貰うわけではないので、それほどシビアにはならなくてもいいが、でも僕の理想に近い方が良いに決まっている。トヤサンが「やるよ」と言ってくれれば良いのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トヤサンは、僕からの依頼をあっさり引き受けてくれた。

 

 魅惑の音楽団にも、多少興味があったみたいだった。まあ、僕が、トヤサンに魅惑の音楽団の面白さを大袈裟に語るので、そう思ったのかもしれない。

 

 さて、僕らは何回かリハーサルの時間をとったが、問題はこのどれにも明ちゃんが参加出来ないと言う事だった。実は、僕は明ちゃんの腕を信頼していたので、その事に関してはまるで気にしていなかった。
 トヤサンは、確か1回か2回リハに来てくれたが、 そこでとうとう明ちゃんと対面を果たす事が出来なかったのである。

 

 「信ちゃん、大丈夫なの?」

 

 「大丈夫、大丈夫、ぜんぜん大丈夫だから……」

 

と、僕とトヤサンの間で、そんな会話が何度かあった。

 この頃、明ちゃんは多忙を極めていた。リハに一度も出る事が出来なかった明ちゃんは、皆に対してとても「すまない……」と言う想いでいた様だった。明ちゃんは、その事を非常に気にして、「今回は僕無しでもかまわない」と言って来たが、僕としては、明ちゃん無しの魅惑の音楽団なんて考えられなかった。それは、他のメンバーも同じ考えだった。

 そんな想いを感じ取ってくれたのか、明ちゃんは、「皆さん、僕を見捨てないでくれてありがとう……」と言ってくれた。くどいようだが、明ちゃんがいない魅惑の音楽団なんてのは、ホント、ありえないのだ。

 

 当日午前中、ステージでリハが始まった。そこで、僕らの演奏を聴いた或る学校関係者の一人から「思っていたのと違う」とクレームがついた。どうやらもっとクラシックっぽいものを想像していたみたいだ。僕らは、クラシック畑のメンバーもいるが、ロック畑のメンバーもいる。もしかしたら、PTAに対しての配慮もあるのかもしれないと、僕は思った。

 僕が通っていた中学校では、「ロック禁止」みたいに言われてた。当時、吹奏楽部で文化祭の時にドラムを初披露しようと思っていたのを、文化祭の前日にNGを喰らった事があり、僕にはその時のトラウマが甦って来た。

 僕のポリシーとして、音楽に「好ましい音楽」と「好ましくない音楽」と言う分類のしかたは存在しない。僕は思わず、カァ〜〜ッと頭に血が上ってしまった。

 そんな時、トヤサンがサッと出てきて、その関係者と話をし始めた。

 

 「信ちゃん、いいから演奏を続けて。ここは僕に任せて……」

 

 トヤサンは、なにをどう言ったか分からないが、関係者と紳士らしく話し始めた。

 

 僕達も、大人として対応しようと、関係者の気持ちも理解した上で、プロらしく演奏しようとなった。

 

 話をよく聴けば、「生徒達に楽器の生の音を聴かせてあげたい」と言う、その方の想いももっともである。後で、その方ともちゃんと話をしたが、魅惑の音楽団の様なバンドは僕が知ってる限り他にはなく、いろいろなジャンルの楽器を同時に演奏するには、物理的な、つまり音量とかを合わせると言う意味で、PAは不可欠である事を理解してもらった。しかし、僕らロック・ポップス畑の人間が、なんでもPAに頼って、それがあたかも当たり前の様になっていたと言うのも、痛いところであった。

 ボランティアではあったが、近年、僕は地元の学校で吹奏楽部のコーチをずっとしてたので、楽器の生の音色をブレンドすることの大切さは少しは分かっていたつもりであった。

 元々、全ての音をPAから出すつもりは最初から無かったが、その辺もうちわでの話し合いが足りなかったかもしれない。

 

 午前中のステージ・リハーサルも終わり、本番まで少し時間があった。めいめいにご飯を食べに行ったりしたが、直ぐに楽屋に戻り、そこでリハーサルだ。実はここが勝負時だ。今回のライヴで、今日初めて合流の明ちゃんの為に、最終確認も含め、ここでしっかり合わせておかないとといけない。弦カルの女子組は、そうそうに女子楽屋に戻り、男子組はもう少しリハにつき合った。

 その間、僕はその学校の新聞部のインタビューを受ける為中抜けしなくてはならなかった。僕が変な事を喋っては行けないと、何人か、インタビューについてきた。ま、見張り役である。僕だって一応49歳の立派な(?)社会人である。いつもの様に下ネタをぶちかます……ナンって事は流石にしないのである。

 インタビューが終わり、また楽屋に戻り、リハのつづきである。

 トヤサンは明ちゃんの演奏をこの時初めて聴いた。ぽかぁ〜〜んとしている。明ちゃんの凄さ、それから、明ちゃん&菱ちゃんの絶妙なコンビネーションにすっかり参ってしまったのだ。そこに長谷川君のハイ・センスなギターのバッキングが絡み、いつもの魅惑の音楽団の音になっている。そう、、コレが魅惑の音楽団なのである。

 

 トヤサン、「いやぁ〜、信ちゃんから聞いてはいたけど、これほどまでとは……」

 僕、「だから言ったでしょ?大丈夫だって」

 

 僕も得意満面で、小鼻が膨らんでいた。

 

 いよいよ本番である。

 

 生徒達は「いったいどんなバンドなんだろう?」と疑心暗鬼だったかもしれない。僕らの音楽のジャンルをことばで語ろうとすると、メンバーの僕でさえ、一言では言えない。ホント、なんなんだろう?

 やっぱり、ロックではまずいのだろうか?3階席はPTAだと言う事であった。それもちょっと気になっていた。

 

 僕らがステージわきで待機していると、女性の先生と思われる方の場内アナウンスで僕達の事を紹介してくれていた。先生もかなり緊張した声付きで、話されていたので、なんとなく僕らもそんな雰囲気に飲まれそうになった。

 

 さ、、、イザ、ステージへ!!

 

 「ワン・ツー・スリー・フォー」カウントの後、一斉に音が飛び出した。

 

 うわぁ!!淒い!手拍子だぁ!!!

 

 客席、ノリノリである。1曲目が終って、暫く拍手が止まなかった。

 メンバー、自然と立ち上がって頭を下げた。

 

 2曲目が終ると、3階のPTA席から、「うぉ〜〜!」と言う声が聞こえた。

 

 うけてる。

 

 オレの下ネタよりも。

 

 今回、数曲、トヤサンに指揮も振ってもらった。トヤサン、山本直純先生を彷彿させる、派手なパフォーマンス。これも良かった。僕もステージの上で楽しく思った。

 

 この瞬間、11人目のメンバーが誕生したと実感した。

 

 トヤサンも、すっかり魅惑の音楽団の団員になるつもりでいる様だった。

 

 この日を境に、11人編成となった魅惑の音楽団。心配なのは、この後またまた冬眠に入りはしないかと言う事であった。

〈つづく〉